横幅が狭く、歯の部分が長い形をしていたようです。出土品をみると、髪を梳かす目的と、結い上げてそれを留める役目を兼ねていたと思えます。
奈良時代以降
櫛は現代のものと同じような形になっていったようです。つまり歯が短く横に長い、髪を梳かす専用の櫛になっていったようです。
一方髪を留めるときは、かんざしのようなものに別に分化していったようです。
垂髪をいつも美しく梳いて、しょっちゅう使うようになった為と思います。奈良時代には垂髪にしていた女性もいたのでしょう。
結髪令が出されたのはその裏返しでしょう。
伊勢物語の
「くらべこし 振分髪も肩すぎぬ 君ならずして たれかあぐべき」
という有名なうたがあります。
これは 「筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに」
といううたに「女」が返したうたということになっています。
私がどうも釈然としなかったのは、髪上げの儀を考えるような年頃の女の子は、髪がもう身長より長くなっていたはずで、「肩」を過ぎた程度の長さではなかったはずです。幼児期に髪は肩をとっくに過ぎていたことでしょう。
もしかしたら、この うたは
振分髪も肩すぎぬ ではなくて 振分髪も丈過ぎぬ ではなかったかということです。
その前のうたに 「まろがたけ」
と身長を題材にしているので、(私の身長も井戸の周囲をめぐらしている枠を越えました。)
それに対して
私の髪も背丈を超えました と歌ったのではないかと思う。
となると 後世の誤写なのかなあと勝手に考えています。
うつほ物語は長編です。髪に関する表現を抜粋しなおして検討しなおしをはかります。髪に関する表現が出てくるのは結構途中からで吹上(上)の凉君が和歌山で父親に宮殿を建ててもらってそこの当主になってからのことです。それ以前にも貴宮(あてみや)などの章はあるのにそこでは彼女の長い髪には触れていません。
物語の真中あたりに最も長い髪に関する表現が多くなります。
(大鏡の)藤原芳子の生存期間とこの物語の成立が近いだけに興味がそそられるところです。
ただ栄花物語にも藤原芳子は出てきますが髪に関しては記述がないんです。
平安式大垂髪がいつ始まったか?の手掛かりは少なくうつほ物語は数少ない中の貴重な史料です。
吹上(上)
女は髪上で唐衣著では御前に出でず。男は冠し、袍(うへのきぬ)著では御前に出でず。
1、御殿に仕える者は、女は垂髪に唐衣、男は冠と束帯でなければ、涼の前に出ることができなかった。
コメント)女は垂髪という決まりは10世紀半ばにはすでに宮中での正式な姿として一般化していたらしい。やはり長い髪を垂らした姿こそ美しさが引き立つものだ。髪を垂らすことによって長さもわかりやすいし髪の質もわかりやすい。
奈良時代の結髪令はいつ廃止されたのかが不明なんです。廃止については続日本紀にも出てこないし。遣唐使が実質廃止されて少したった10世紀の初めころからでしょうか?
つづく
しかし、1000年の歳月を経ており、オリジナルがどうだったのかわかりません。
身長を超える長い黒髪をひきずるように生活していた貴族女性の姿を実に美しく描写しています。
文学としては、非常に読んでいても編集が必要の様でまとまりがなく難渋する作品ですが、歴史資料としては非常に貴重なものです。源氏物語より古い王朝美を描いた作品ですから。
垂髪が宮廷で常識になったのは私の推定では10世紀の中ころと書きました。
皆さまはどうお考えですか?
更新していなくてすみません。
これからまた更新します。
単なる古典というよりもっと歴史的な長い黒髪に焦点しぼっていきます。
アクセスがふえるといいなあ。
皆様のコメントがいただけると勇気付けられるのですが。
侍従
あめ露梢わかずかかればや花の枝とは人の知るらむ
雨や露は人の思いとは関係なく花の枝にもどこにもかかるものさ。
少将
春風の吹上ににほふ櫻花くもの上にも咲かせてしがな この吹上の浜に春風が花の香りを運んでくる。桜の花を雲
の上にも咲かせてみたい。
あるじの君
さくら花雲におよばぬ樹なればしづめるかげを浪のみぞ見る 桜の木は当然雲には届かないから沈んでゆく花びら
の影を波だけが見ていることだろう。
良佐
櫻花そめいだす露のわかねばやそこまで匂ふ枝見ゆらん
桜の花をしっとりと染めてみせてくれる露がかかってくれ。そんな美しい枝を見たい。
松方
さくら狩ぬれてぞ來にし鶯の都にをるは色のうすさに
桜の花にうぐいすが雨露に濡れながらも来ている。都にいるうぐいすは桜の花の色がうすくて桜の木には来ている
まい。
近正
人づてにきき來しよりも櫻花あやしかりけり春の風間は 人から口コミで聞いて見に来た桜の花。春風の合間に見
えるこのような桜はなんとも滅多に見られるものではない。
時蔭
白雲と見ゆる櫻も有ものをおよばぬ枝と思はざらなむ 白雲のように丸く咲き誇っている桜の木でさえもこの銀で
作られた花には及ばないさ。
種松
なでおほす甲斐もなきかな櫻花にほふ春にもあはずと思へば 桜の花を撫でてやるほどの美しい春に巡り合えない
なら生きている甲斐もないものよ。
などい〔ら〕ひて、夜一枚夜あそびあかす など歌を詠み会って一晩遊び明かした。
その日 かづけ物 種松が妻君、装 出でつつ綾も物の色も珍かに清らなり
その日のプレゼントは種松の妻が着飾って登場して綾物などの珍しい物ばかりであった。
コメント)なにしろ歌が多いんで訳すのに手こずっています。
うつほ物語 10-2
原文)
かかる に少将 かくおもしろき所に あるかぎりの上手 この世の一のこと ふきたて掻きならしつつ きよらをつくしてあそびわたれど やまひにつき ふししづみて思しことは なぐさむべくもあらず なげきわたるに 花さそふ風も 心すごく吹て べを見渡し給つ 花は色をつくし ただいまさかりなり 風にきほひてちりかこぎわたるをぶね ちかくかへる はなひとつにつづきてみゆれば
少將
行船の花にまがふは春風の吹きあげのはまをこげばなりけり
あるじの君
春風のこぎいづる舟にちりつめば まがきが花をよそにみるかな
じじゅう
ゆくふねに花ののこらずふりしけば われもてごとにつまむとぞ思ふ
らうすけ
風吹ばとまらぬ舟を見しほどに花ものこらず成リにけるかな
などの給ほどに、
宮よりたねまつが女君 あはせたき物を山のかたにつくりて、こがねのえだに、
しろかねの櫻さかせてたてならべ花にてふどもあまたすへて そのひとつにかく書きつく
さくら花 春はくれどもあめつゆに知られぬえだと みるぞかなしき
とて よき思して はやしのゐん たてまつれり 君たち見給て てふ ごとにかきつけたまふ
現代語)
こうして仲頼はこれほどすばらしい邸宅でこの世で最高と思える音楽などを楽しんで過ごしていたが、にわかに病に臥してしまった。
残念なことである。 外は浜辺から野山にかけて花盛りである。海から河口を行き交う船にも花びらが散っているのが見渡せる。
仲頼は
行き交う船に花が散るのは この吹上の浜を漕いでいるからこそだなあ
と詠めば
凉は
春風が吹いている中を漕いでいる舟にも花吹雪が舞い、垣根の花もまた格別に見える。
侍従(仲忠)
港を出て行く舟に花が吹き散るのをぼくも手でつまんでみたいものだなあ。
らうすけ(良祐)
風が吹いても漕ぎ続ける舟をながめているうちに蕾も次々に開いているんだろうなあ。
などと謡い合った。
そこへ種松の妻が各種の香を併せて山の様に盛り、それに黄金で作った桜の枝に銀製の花を咲かせ、たくさんの蝶をとまらせた細工をもってこさせた。
そこには歌が書き添えられていた。
桜の花は盛りだけれど、いずれ雨風に吹き散らされてしまうことを思うと寂しいわ。
客たちは感激して歌などを奏して楽しんだ。その歌を飾りの蝶にそれぞれ書いて添えつけた。
うつほ物語 10
かかる程に 濱のほとりの花盛になりぬ 君達花御覧じに林の院に出給ふ その
日の御設 種松が妻仕うまつり給ふ 今日の御装は 皆直衣の御衣ども、御供の人
れいのうへのきぬ さくらの下襲などきたり 皆徒歩より出給ぬ
御まへの物皆妻の仕うまつり給なれば賄より始めて女の仕うまつぢむのをしき
廿、沈のろくろ挽のおほんつきども 敷物、打敷心ばへ珍らかなり 青い白栲の唐衣 綾の摺裳 綾の掻練袿 袷の袴著たり
おとなかみたけにあまり いろしろくて 年廿歳よりうち人十人。おなじあをいろにすはう れうのはかま あやのかいねりのあこめ一かさね あはせのはかまきたるわらは かみたけとひとしくて とし十五歳よりうち ひとしくすがたおなじき十人 をとこどもは みはしのもとまでは十の御をしきを取りつづきて たちなみ しもつかへはみすのもとまでとりつぎ わらは は御前にまヰり おとな四人は 御前のこと まかなひをばわらはのてよりつぎてまヰるに たけ うるはしきもりものをよもり をしき一にす て とほくよりまヰるにいささかなるあやまちせず をとこ君たちの御前に たちゐつかうまつるに めやすく らうあるわらはべなり
かくてものねなどかきたて、れいのあそびなどふるまひて、歌つくりなどしつつ
よみあげてきむ きんにあはせてもろこゑにずんじ給
上記は原文に近い状態でタイプしたのですが、段落や空け字をとってもとにかく読みにくいですよね。とりあえず現代文にすれば
(現代文)
その頃吹上の浜辺の木々が花盛りであった。かれら客たちは「林の院」へ花見に出掛けた。
その日の接待は種松の妻が行った。客たちの服装は直衣、お供する妻らの服装は上着に桜柄の下襲(かさね)である。皆徒歩で表に出た。様々な支度は全て種松の妻が行った。沈香木製の折敷(角盆)二十、やはり沈香木製のろくろで削って作った杯などや立派な敷物や珍しいグッズを揃えて出かけたのだ。
客人の給仕を勤めたのは若い侍女たちであった。彼女らは藍染の唐衣(からぎぬ:正装の表着)に蘇芳色の汗袷(かざみ)、綾の袴、綾の掻練の袿、袷の袴という服装であった。
成人女性〈多分15歳位以上の女性)は皆、髪が背丈より長く、色白であった。二十歳以下は10名くらいいた。皆髪の長さも充分長く揃っていた。
また15歳以下の童女も10名くらい同じような服装をして仕えていた。
男の従者たちは林の院の階の下まで10セットの敷物などを運んで並べていた。さらに下仕がそれを受げ取って御簾のもとまで運んだ。
そして正装の女童たちがそれを客たちの前に並び、成人女性四人は童女たちの手からとりついで給仕していた。
一つの角盆にみごとな盛物を載せて、給仕の女の子たちは遠くから運ぶのだが、少しの粗相もない。
男の客たちの前でも彼女らは身のこなし振舞い麗しかった。
そして、琴を奏でたり歌を詠んだりして宴が始まった。
コメント)恐らく都でも既に女性は長い髪を垂らしてきれいに装うことを競っていたのでしょう。吹上の種松もまけじと麗しき女性を育てていたのです。10世紀の半ばには藤原芳子の(大鏡)超ロングヘアが紹介されていますから、まあ、10世紀前半、遣唐使を止めて久しくなって、わが国独自の美観が発展していたのだと思います。
原文をこれまで紹介してきましたが、何しろ1000年のうち写本されながら伝わった過程でかなり原著形態が崩れているみたいですので、何とかわかりやすい現代語のみで今後は紹介していきます。
まず読み取り作業がえらく大変です。現代語訳の本も出ていますが、やはりわかりにくいところが多いですね。どの本を底本にしたかによって内容も微妙に異なっています。小生は髪の表記の多いものを抜き選んで紹介していますので、従来の古典研究方法からはかなり逸脱していて、邪道だと偉い先生方からはにらまれそうですが、あくまで「髪」にこだわっていきたいと思います。
すっげえ、長い文章でひらがながやたら多くて読みにくいことこの上なし。
でも、ところどころ平安時代のすばらしいロングヘアの表記があってわくわくします。
時間はかかりますねえ。
いま気になっているのは、紀伊の国の吹上の種松の建てたという大邸宅が実際にそのようなものが存在したかということです。多分もしあったとしても立地条件の最もよい場所でしょうから、それがもしや今の和歌山城に戦国時代に建て替えられたのかなあ?なんて妄想しています。後世徳川家も重要視した地域ですから、資源豊富だったんじゃないかなあ?
だったら本当に長者がいてもおかしくない。
神南備の種松は架空の人物でしょうけど、そんな話が都にも聞こえていたのかなあ?原著者も土地鑑があったのかなあ。
でなければ、あそこまで書かないでしょう。
和歌山の歴史に詳しい方がありましたら情報を教えてください。
絵解き
ここは吹上の宮 みなみおもておおきなる野邊のほとり 松のはやしはたまちばかり たけひとしくすがたおなじやうなる のきよくひろし しか きぎすかずしらずあり ひがしおもて はまのほとり・花のはやしはたまちばかりなり 花のみかきのもとまでなみだち みつしほはみかきのもとまでみち ひるしほははなのはやしの東をかぎれり
しほみちては花の木は海に立てる如と見ゆ。
いさごうるはし。木の根、品ナく見えず。色々の小貝ども敷ける如あり
宮より西大きなる川のほとり はたまちばかりもみぢのはやしのたけひとしう、かず同じじ。宮よりきたおもて大きなる山のほり・山よりしもまでときはの木いろをつくしたり。まちのほど、木のかず南と等し。
宮のうち四おもてめぐりてみへのかき みつのぢむのおもてごとにひはだぶきのみかど三たてたり。
むまばどの大なるいけおほきなる山の中に、いかめしきそりはしあり。池のめぐりに、花
の木めぐりてたてり らちゆひたり かたはらに、西東の御厩、別當、預ことごとしう御馬十宛。鷹やに、鷹十宛すヱたり
大殿まちひはだぶきのこむごむ るりして、造り磨きたる。大殿、渡殿、更にもいはず照り輝けり。すみ給フ大殿、うちづくり御座所心ことなり
まらうど三所あるじの君に琴奉り給へり。あるじの君舞踏して給はり給フ。少将箏の琴負
良佐、琵琶奉り給ふ。
挿絵の説明ですが、どんなイラストを描けばよいでしょう。
しょうがないので、その原文だけを載せました。つまらないかなあ?
今の和歌山城から紀の川あたりの1000年前の風景ですよ。
